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○「帝室博物館」スタイルっていうのは、本当に前時代的なものなの−?
今さらここで博物館の歴史をひも解き、語源の「ミューゼ」がどうのと云々するつもりはありません。では、どうしてあえて“「博物館」って何だろう−?”と表題にかかげたのは、現代における日本での博物館のあり様を今一度考えてみようということです。
時代の潮流の中でよく言われる、ガラスケースに鎮座まします帝室博物館スタイルは時代錯誤ではないかと−?私はここの所から気に入らないのです。私にとって博物館らしい博物館は「東博」・「京博」・「奈良博」と、今も思っています。しかし私自身、大阪の国立民族学博物館を皮切りに、四半世紀にわたって博物館の展示構想・計画・設計・施工に携わりつつ博物館プランニングをやってきましたが、一度も帝室博物館スタイルをやっておりません。言うこととやることに矛盾があるみたいですが、もう少し客観的にこの辺を見つめてみようと思います。
確かに時代の推移と共に博物館のあり様が変化しているのは事実です。これは行政的レベルからの政策的・制度的な問題、時代による利用者ニーズの変容、そしてプレゼンテーション(展示)技術の発達による変化等に起因します。従って、博物館のスタイルが変容していくことは必然的なことなのです。
一方、博物館には目的、設立主体、立地、主役となるモノ、人材、規模、運営の考え方等によって様々な性格の博物館バリエーションが生まれます。このバリエーションによっても、博物館のスタイルは変わります。
従って、時代の変遷に伴う博物館スタイルと博物館の性格づけによって変わる博物館スタイルとは、混同しない方がいいのではないかと思うのです。
先ほどの「帝室博物館」スタイルにもどります。例えば、21世紀に設立する博物館で、素晴らしい歴史的価値のある資料が収集できたとします。これらを公開するにあたって、私なら迷わず立派なガラスケースに展示し、静謐な空間のしつらえのデザインをしたく思います。勿論、関連情報等の展開において最新テクノロジーのデジタル情報技術を駆使した、新たな情報展開を図ります。しかし、展示スタイルとしては21世紀といえども、先の「帝室博物館」スタイルを基本とした考えに他なりません。これは価値ある資料を安全に保護すると共に、丁寧にじっくり“もの”(資料)を観察してもらいたいという目的を持つからです。
現在、本物の資料の収集・収蔵があまりにも少なすぎます。この“本物資料”のこだわりをなくした所から、技術論に偏重し、帝室博物館非難になっていると思われます。
ですから、一概に何が古く何が新しいということは早計で、しっかりとつくろうとする博物館の性格を決めることが先決と思います。
○どんな博物館をつくりたいのか−?
当シリーズの「これからの博物館(展示)のあり方」をテーマにしておりますが、前述のことから、まず、主体者が「どんな博物館をつくりたいのか−?」ということを十分検討し、方針を決めることが肝心かと思います。この「どんな」ということは、他ならぬ「性格づけ」になるかと思います。すなわち、「これからの−」ということではなく、主体者が目指す思想と出来ることの範囲を、十分吟味することです。
よく基本構想・計画ではとうとうと素晴らしいビジョンをかかげていますが、設計・施工という段階で尻すぼみになっていく例はいくらでもあります。現実に、資料収集にはどんな資料があるのか、収蔵点数はどのくらいあるのか、資料製作にはどの程度予算がかけられるのか、シナリオや解説等をしっかり押さえられる研究者(学芸員)がいるのか、情報展開にあたり、基本的情報素材があるのか、コンテンツを確かなロジックの基に構築できるのか等々と、基本構造を固めるのに十分検討しなければならないことが山ほどあります。ましてや開館後の運営問題を考慮すれば、人材の問題と、企画運営活動の問題、マネージメントの問題と、尚大変な問題があります。
以上のいろんな問題から、主体者として「やりたいこと」と「出来ること」を見極め、性格づけを決めることになるかと考えます。従って、単純にコレクション博物館、研究博物館、地域の人達の学習の場としての博物館、ワイワイガヤガヤ楽しんでもらう博物館と、いろんな考え方、いろんなスタイルの博物館が考えられます。それによって展示の考え方はいかようにも変えられ、そして対応する技術が工夫され展開されます。
以下、経験の中で三つの事例をあげて説明したく思います。
●事例1−国立民族学博物館
展示計画・設計・設計管理 (株)トータルメディア開発研究所
国立民族学博物館(以下、民博)は、大阪の万博跡地に1977年11月17日に開館されました。それ以後展示棟の増殖に増殖を重ね、昨年1996年11月14日第7展示場が完成し、地球一周の全地域をカバーした形となりました。
この民博は文部省の国際学術局を窓口にし国立大学共同利用機関として位置づけられ、研究博物館の性格を当初より明確に打ち出されています。そして周知の如く、準備室長時代から初代館長として梅棹忠夫先生が基本的方針を打ち出し、迷うことなく研究部、建築設計者、そして展示設計者へと思想が伝わり、それぞれのパートがそれぞれの役割を存分に発揮することができたのです。
以下、スタート段階で出された主な基本方針をあげてみます。
○展示構成は研究部が概ね地域部門に分かれているということに対応して、地域別に構成する。
○それぞれの文化を表現する手段としては、まず、その基本に生業をおくことが望ましい。しかし、その文化によっては、その特質をもっともよく表現できるテーマがあれば必要と考える。
○動線(地域展示の順序)は日本を起点として地球を東まわりし、最後に日本展示に帰ってくる順序とする。
○本館は、日本人が世界を見る窓であり、かつ、世界からは日本を見る窓でありたい。
○地域展示に加えて、特定の地域・文化に限らず、ひろく横に眺めていこうという通文化(クロスカルチュア)展示を設ける。
○地域展示が世界の諸民族の文化を総体として理解できるというものに対し、民族の文化を項目別に理解するという目的で情報ブース(ビデオテーク)を設ける。そして、常設展示場とは切り離し、個別対応でじっくり見ることができるようにする。
○展示はできるだけ状況的でなく、ものとものとの構造的・機能的関連がわかる方針をとりたい。(構造展示)
○大阪万博のテーマ館展示の実例経験で露出展示を試みたい。
○予算と収集実態に則し、展示棟の段階的増設(建築の増殖システム)システムをとる。
○その他
参考文献 『民博誕生』梅棹忠夫著
●事例2−江東区深川江戸資料館
展示構想・計画・設計・施工 (株)トータルメディア開発研究所
江東区深川江戸資料館は、1986年11月16日に江東区役所白河出張所とともに複合型コミュニティ文化施設として建設されました。通常資料館の展示計画は社会教育委員会が多いのですが、この場合企画部企画課の管轄で進められました。従って建設の目的は、区民が自発的に地域の文化に興味を示し、将来に向けてより良い地域のコミュニティを創造していくための施設であり、観光的魅力を兼ね備え、人々が交流する活気ある施設として示されました。
江東区という地域は江戸時代に形成された姿を今に引きずり、「下町」、「深川」といった名前で親しまれています。これが即、館名の「江戸深川」という性格付けを表しています。従ってプランニングとしては、資料の一点一点を吟味し、学問的裏付けを取りながら展示展開をしていく教育委員会的方針をとらず、まず一般者に「江戸深川」たるものが体で、感性で判る方針を企画部より要求されました。
もっともこの下敷きとしてのイメージは、1980年に設立された台東区の下町風俗資料館があります。(このプロジェクトも担当しました。)ここでは、われわれがいうところの映画美術の手法を駆使し、実大復元による「情景再構成展示」の手法によって駄菓子屋と銅壷屋を展示しています。
今回はより拡大し、「まち」とまではいきませんが、一区画を江戸情緒よろしく構成復元を試みようというものです。区側の方針が明確に打ち出されているだけに、この一点に絞り緻密な展示構成シナリオを作成し、時代の経年効果や、情景演出のための時間経過を表す照明、音響等の演出を駆使した姿が現在の施設です。
従って、この思い切りの良さが普通の博物館とか資料館とは雰囲気を異にしていると思います。
●事例3ー斎宮歴史博物館(三重県立)
展示構想・計画・設計・施工 (株)トータルメディア開発研究所
斎宮歴史博物館は、前述二館とは違って一般的な歴史博物館そのものです。当館は、1989年10月19日に三重県多気郡明和町の斎宮史跡の上に建てられたサイトミュージアムであり、テーマ博物館なのです。従って性格付けから考えるならば、典型的な歴史博物館でオーソドックスな方針、手法で問題はないはずです。
しかし、残念ながら私にとって「斎宮」(「さいくう」と呼びます)、「斎王」という言葉は初めてであり、全く知識がありませんでした。また、史跡から発掘された資料は、土器片、壷、井戸枠、土馬、碁石等といったもので、平安時代に栄えた斎宮(いつきのみや)をイメージすることはかないません。当然、模型資料、グラフィック資料等により補足し説明する事はできますが、斎宮は斎王制度によってつくられた宮なのです。とすると斎王制度というものがどんなものなのかが判らなければ本質的なことは理解できません。
それ故、このテーマ博物館のテーマ自身をどう理解させるかが一番の問題となります。そこで概要を紹介するガイダンス展示−展劇手法によるシアター展示−がどうしても必要となります。展劇手法とは、展示と演劇・映像を組み合わせた意味の造語で、空間的要素と時間的要素を取り入れた展示技術のひとつです。このガイダンス展示空間は、一般の展示機能とガイダンスとしての映像シアター機能を持っています。映像シアター時には巾15mの三面マルチ映像と昇降舞台・廻転舞台・引き枠舞台の舞台装置とを連動して、20分の分かりやすいドラマチックな展開が繰り広げられます。
第一回目の展示委員会の折、委員の先生より、施設の1/3を映像シアターにとり、映像で安易に処理するとは博物館としては邪道であると非難されました。そこで私は、先述したとおり、「斎宮」、「斎王」、そして「斎王制度」といった一般に馴染みのない(基礎知識がない)ものをどう伝えたらよいか、別案の検討を問いました。委員会の座は白け、無言の状態になりとりつくしまのない時、副委員長が理解を示してくださり、一度やらせてみようということになりました。これによって現在の形が実現し、地元の人たちにも共感を呼び、他所から来た人たちをまず当館に案内してくださるという、ありがたい話を頂いています。
○いろんな博物館があった方がいい!!
博物館は、それぞれの文化資産を基に、それぞれの異なった条件で、どれ一つ同じプロセスでつくられるものはありません。それ故、自分たちが目指すもの、そしてできる範囲のことを十分に検討してつくる必要があります。先の性格づけと共に、どのような博物館イメージを持つか−?施主側とサポートする技術スタッフが一体となって意見を交換する必要があります。
近年の博物館づくりにおいては、業者発注の名目でプロポーザル、コンペティションによるものがほとんどです。この競争原理は、いいものをつくる上で否定するものではありませんが、基本的ソフト(内容)に関することになると大いに問題があります。本来施主側が決めるべきところを、業者側に博物館のあるべき姿、地域とのあり方、施設の構成等々と設問されることが多いです。これらは先にも述べましたように、いろんな切り口からいかようにも展開できるのです。ですからせめてどんな性格で、どんな方向を目指しているのかは、施主側が主体となってキッチリ議論し、方向を示すべきものと考えます。
現在博物館の展示構想・計画・設計のステップは、建築の発注システムにならっています。わたしも四半世紀の間、このシステムに疑いを持つことなく制度として諦めていたきらいがあります。しかし考えてみれば、「展示」という言葉には、博物館の性格はもとより諸機能との関連・運営活動とも直結し、単なる技術論だけではすまされません。その為には、特に初段階では施主側と展示技術者との密なるコミュニケーションが極めて重要なこととなります。構想前に基本的な勉強会的なものがあって、相互に議論を重ね、できるだけ具体的な共通のイメージづくりが必要かと思います。要するに博物館計画は手間暇のかかるものなんです。設立する風土、施設の種類、資料に対する知識等々、勉強することは山ほどあります。建築設計に至るプロセスとは格段に違うのです。学芸部との打ち合わせ回数を考えても、一目瞭然です。
これらの諸条件の中でつくられていく博物館は当然それぞれの個性をもって誕生していきます。利用者の人々には、老若男女、目的意識、趣味嗜好等々さまざまです。いろんな博物館があった方が、かえって利用目的が明確になり、それぞれの活用の仕方が生かされることと思います。まさに、現代は多チャンネルの時代なのです。
●思い切った演出効果
−船の科学館・羊蹄丸「青函ワールド」−
展示構想・計画・設計・施工 (株)トータルメディア開発研究所
1996年3月OPENした“船の科学館・羊蹄丸「青函ワールド」”は、ひと味違った位置付けでスタートしました。この羊蹄丸はもともと青函連絡船でしたが、ジェノバの「海と船の博覧会」で日本のパビリオンとして改装され、その後「船の科学館」の所有となったものです。従って、船内は元の青函連絡船の面影はなく、どういう形で本館の「船の科学館」に位置づけ、展示の方針を打ち出せばよいかが大きな問題でした。元の青函連絡船にもどすには附属設備はなく膨大な費用を要し、とうてい無理な話です。しかも青森港には実船として見学できる「八甲田丸」があります。
この宿命の「羊蹄丸」、そして東京というシチュエーションを考慮し、北国の津軽海峡を結ぶ船から“旅”、“生活”といった身近な視点からのドラマづくりをコンセプトに「演歌が聞こえる青函ワールド」をデザインテーマとしました。別の言い方をすれば石川さゆりの“津軽海峡・冬景色”の世界です。
館のスタッフとカンカンガクガクの末、思い切って本館の科学館とは全く性格を変え、一般の人たちに気楽に楽しんでもらおうとの英断が下りました。
後は、館側スタッフと共に現地調査、多くの関係者からのヒアリング、資料提供、アドバイス等の協力を得てデザインの基礎固めができました。技術的には映画美術の生活感あるクソリアリズムの徹底と、舞台演出技術による空間と時間のドラマ化で現在の姿を具体化したものです。
ここに従来の博物館とも少し違い、しかし決してテーマパークではない新たな空間が誕生することになりました。
○私のつくりたいミュージアム
−コミュニケーションの場にしたい「サロン・ミュージアム」−
前述のごとく、私は「21世紀の博物館はこうであるべきだ」とはさらさら考えておりません。いろんな性格やスタイルの博物館があっていいし、またあった方が楽しいと思うのです。そのかわりそれぞれの館の個性を十分に発揮してもらえるようなクリエイティブを、そして努力をして、存在の意味を確かなものにしてほしいのです。
ここで私は個人的にいろんな博物館があっていい中で、是非つくってみたい博物館の考え方がありますので、以下述べさせて頂きます。結論を先に言えば「サロン・ミュージアム」です。(言葉上の語呂から「博物館」を「ミュージアム」と置き換えさせてもらいます。)
世の中には本当に沢山の博物館が存在し、私も沢山手がけさせて頂いています。しかし、これらの博物館が人々にどれほど利用・活用されているかは今一度真剣に考える必要があります。我々博物館に関心を持っている仲間ですら疑問です。仕事上ではいろいろの博物館を見、知識も豊富だと思いますが、一生活者の立場から見に行ったり、利用している館があるかと問われれば心もとない返事が返ってくると思います。
ということは、博物館がもっともっと生活スタイルの中に溶け込み、身近なところで活用できる仕組みにしなければなりません。そういう意味では知識の修得からもっと生活レベルでの知恵や刺激を与えることによって、自分自身の知的向上、価値観や生き方への貢献、生活の楽しみ方等ができるものになればと思います。そこで近年取り沙汰されている運営問題がやはり重要なこととなります。けっして“箱物”で終わってはいけないということです。
ここで私は、博物館をもっとコミュニケーションの場にしたいと考えています。これを「サロン・ミュージアム」として提唱したく思います。では、コミュニケーションの「場」とはどういうことかと言いますと、「場」とはけっして「場所」を意味することだけではありません。必要なのは「ハコ」ではなく、その「中身」のことですから、ここで言う「場」とはその「機能」のことを意味します。博物館にコミュニケーションを生み出すような機能を持たせようということなのです。では、コミュニケーションを生み出すような機能とはどういうことかということになります。
博物館には収集・保存機能もあれば、調査・研究の機能、展示機能、教育機能もあります。また、レクリエーション機能もミュージアム・ショップ機能もあります。これらは全て現在の博物館に既に備わっている機能であり、何も目新しいものではありません。しかし、ここで提案したいのは、全く新しい機能をコミュニケーション機能として付け加えようというものではありません。そうではなく、既にある諸機能をコミュニケーションというテーマのもとに結びつけることによって展開することはできないかということであり、可能性を探ろうというものです。現在の博物館では、個々の機能の充実は図られても、それぞれの機能をつなげようとすることは十分できていないのではないかと思います。
この「サロン・ミュージアム」の提唱に先立って、小規模ではありますが、同じ考え方で展開実施してきた経緯を2件紹介します。
●情報サロン(川崎市市民ミュージアム)
1988年11月開館、設立主体:川崎市
展示構想・計画・設計管理 (株)トータルメディア開発研究所
川崎市市民ミュージアムの3階に映像ライブラリー、映像学習室と学芸員諸室等の結接空間に、コミュニケーション機能の場として「情報サロン」を設けました。この「情報サロン」は、以下の機能とコミュニケーションを活性化させる装置を配備しております。
1.各種情報の提供
・CCTV情報−ミュージアム施設案内情報、催事及び学習講座情報、環境映像等をビジュアルインフォメーションによって提供
・キャプテン情報−ミュージアム施設概要情報、川崎市の他の文化施設情報を文字・図形情報によって提供
・ファイリング情報ー考古・歴史・民俗・漫画、グラフィック、写真の収蔵資料、作品をメニュー検索方式で文字情報と画像情報によって提供
2.図書関連ができる場の提供(閉架式図書)
書名と著者名による検索システムの端末機と、図書貸し出しカウンターでの人的対応による図書借り出し及び閲覧ができるオープンスペースの提供
3.くつろぎ、憩い、語り合える場の提供
結接空間により学芸員(職員)と利用者との交流、さらに利用者同士の交流として、休憩及び談話ができるソファ、テーブル、ベンチはもとより、一角に喫茶コーナーを設け、コミュニケーションの円滑を図る装置を提供
●スタディサロン(横浜歴史博物館)
1995年1月開館、設立主体:横浜市
展示計画・設計・設計監理 (株)トータルメディア開発研究所
横浜歴史博物館は、川崎市市民ミュージアムの一角に位置づけたのに対し今回の「スタディサロン」は、展示空間のコア(中心部)に位置づけ、より積極的に機能を発揮させようとしたものです。また、川崎の情報サービスを軸にしているのに対し、横浜の場合は周囲に展示場を控えているところから、学習活動にシフトしたコミュニケーション機能の場として位置づけています。
従って、「スタディサロン」の位置づけは、
1.博物館活動の諸機能を連携させる中核の場として
2.空間的にも展示施設の中心部に位置し、気軽に“もの”とのアクセスが可能な場として
3.博物館活動への参加を誘う環境と情報を提供する場として
4.展示施設と隣接し、展示に関する補完情報を提供する場として
5.博物館活動全体のPRの場として
6.知的欲求を刺激し、学習へと動機づける場として
7.くつろいだコミュニケーションが図られる場として
以上、二つの発展的経緯から今度は「サロン・ミュージアム」として博物館全体にコミュニケーション機能の考え方を被せようというものです。エントランスホールはもとより展示場及び関連の諸施設、ミュージアム・ショップ、レストランまでも意識的に展開を図ろうとするものです。
現在、某博物館計画でこの「サロン・ミュージアム」計画を5年前より進めておりますが、主体者側の諸事情で停滞を余儀なくされております。
ところで「サロン」という言葉ですが、私としては単に人々が気楽に語り合え、情報交換をするという、機能でもあり空間でもあるという意味で使っております。
勿論「サロン」というのは、客間を意味するフランス語から転じて、貴族や金持ちの妻が客間を開放し、同好の士を招いてさまざまな会話を交わすフランス社交界の風習で、17〜18世紀に隆盛を極めたといわれています。この「サロン」の持つ意味を拝借し、拡大解釈して老若男女、諸職の人たちが自由に語り合える機能及び場を「サロン」と呼んでおります。近年、巷でも○○サロンが横行しているのもこの類と思われます。けっして、アルサロ、ヒルサロのサロンではありません。
日本流に見れば、中世から近世に生まれた「寄合い」、「会所」、「連」等といったものが日本的サロンの源流になるかと思われます。また、井戸端会議も一つのスタイルかもしれません。
従って、「サロン・ミュージアム」は従来の見学に行く、学びに行くという以外にもっともっと身近なものになり、普通の生活スタイルの中に溶け込んでもいいのではないかと思うのです。いわゆる、行きつけの喫茶店、本屋といったごとく、「行きつけの博物館」っていうものをつくりたく考えております。
博物館は他の施設と違って、もの、展示、情報、ひとといったコミュニケーションの媒介になるものが沢山あります。会話は弾み、知的刺激は至るところから得ることができます。まったく素晴らしい施設なんです。これらの施設が十分利用されていないことは淋しい限りで、大いに利用してもらう工夫や広報、普及に努める必要があります。リピーターの問題もこんなところに潜んでいるのではないかと思います。展示替え、企画展示、特別展示等がないからリピーターが生まれないといった単純なものではないと思っています。
いろんな博物館があり、その中に「行きつけの博物館」でもできれば、新しい仲間も増え、茶飲み話に蘊蓄も語られ、生活をリフレッシュし、クリエイティブな糧になることは間違いないと信じています。
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